午前0時のフォトブログ

かつてブログに銘打ったのは、午前零時に読んでくれると言った1人の読者の言葉から。

ほんの何気ない一言が、心にすっと染み入る瞬間があります。
ほんの何気ない一言が、心に突き刺さる瞬間があります。

言葉の力をグッと感じるのは、何でもないほんの日常なんだろうなと今は思います。
かつてのサイトで掲示板に書き込まれる度に一喜一憂したことを少し気恥ずかしく思い出しつつ。

ありがとう。
オレの病んだ文章に共感・反感し、何かを返してくれる人に。
愛と感謝を込めて。

真面目に

ふざけるってのもなかなか難しいですね。
楽しいので止めませんが。

トクントクン

鼓動とともに痛みがやってくると、生きていることを実感します。
自他共に認めるSですが、生きている証は痛みを感じていることだという認識はあります。

この痛みを感じたときに、聞きたくなる声があることに感謝します。
この痛みを感じたときに、つなぎたくなる手があることに感謝します。

それが望めるものであれ望めないものであれ、望むものがあるというのはオレにとっては幸せなことです。

ええ、ちょっとイカれた心の持ち主なんだと自覚はしています。

大体音感

自分の名の響きが実にいいものだと実感しました。
これだけ記号でない自分の名を聞いたのはいつ以来だったろうと思いました。
そして、こんなに心地好く呼んでくれるのは、彼ら以外にはいないだろうと再認識しました。
呼び方は人それぞれで、ひらがなだったりカタカナだったり漢字だったりしましたが、その全てが背伸びした悪ガキに向ける、どこか懐かしい気持ちのこもった声でした。

自分の名を聞いて嬉しくなるのは、記号としての呼び名に辟易していたからなのか、単に自分の名を愛して止まないナルシストゆえなのか。
いずれにしても、心の深い所に明かりが灯りました。

気づけば随分と近いところにありました。
オレのルーツは。
オレの宿り木は。

代替不可

自分の代わりがいないなんて、そんな大それた勘違いをすることはありません。
でも、他人が同じ方法で同じ結果を導くことが出来ない種類のことは、オレにだってあるのです。

オレのやり方は正規のものであったためしがなく、どこか不正規であったり不合理であったり不順であったりするのですが、結果として導き出されるものの質や導き出すまでの期間は、正規のそれと同等あるいは劣ることはないものと自負しています。

しかしながら、同じ方法をたどって同じ結果を導く人間と出会ったことはありません。
手塩にかけて育てたかつての部下たちの何れもが、同じ方法を辿ろうとしながらも最終的には正道に戻って行きました。
そして、いつの日もそれを寂しく思うよりも前に「正しい選択をしたのだな」と独語する自分がいました。
結局のところ、ある種の奇形であるオレと同じ道を一般的とされる人が辿る必要などないわけで、そもそも同じ道など辿れるわけがないわけです。

そう、正規でない道を歩いて正規以上の結果を生むことを欲するのであれば、オレの代わりはいません。
しかしながら、正道を辿って同等の結果をつかむことは他の誰にでも可能なわけです。
要は、仮に「丸っきり同じものを求めるのであれば代わりはいない」のですが、「同等のものを求めるのであれば代わりはあふれている」のです。

それを知っていてなお、周囲がそれを認知していてなお、唯一無二と称されたいのであれば、丸っきり同じもののいない独自性、さらにその独自性を際立たせる何らかの手法が必要なのだろうなと、街灯の遥か上で一段と明るく輝く月を見上げつつ思うのです。

帰還

逃げてみたところで還る場所は同じ。

かつての自分がおかえりと笑うのが見えます…。
1度ならず2度と続くと、偶然ではないのだなと鈍感なオレにも理解できます。

地を這う楽しさと丘に立つ厳しさ。
双方を理解した上でも、オレがどちらを選ぶかはオレ自身がイチバンよく知っているみたいです。

つくづく損な性格だなと、ポツリと独語。

ミッシェルさん

最近Thee michelle gun elephantを引っ張り出して聞いています。
どこか歌詞が切ないなぁと思ってしまうのは歳を取ったせいでしょうか。

エレクトリックサーカスの燃え尽きた感じがたまらないのです…。

オトコのコのガソリン

「男のガソリン」というよりは「オトコのコのガソリン」だと思います。
どこか大人になりきれない彼らに贈るのはやっぱり、そういうものが一番なんじゃないかなーとか。

いきなり暑くなっちゃいましたし、ちょっとクールダウンするのに飲んでもらえりゃそれがいいのかなと。
きっとオレよりもいい顔で乾杯してくれてるのを思い描きつつ、オレもソーダで乾杯!!

ふっかつのじゅもん

ようやく回復といった感じです。
とはいえ、色々と戻ってはいませんのですぐに元通りとはいきません。
ただ、戻すために復帰するってのは理に適った考えなんじゃないかと思う次第で。
ここ数ヶ月の労わりの姿勢から転じて、多少の無理は厭わずに進もうと思います。

そして、今回は自身を成長に導いたフィールドから、少々場所を移してしまうことにはなりますが、かつて開拓したのとは違う場所に何かを組み立てられたらそれはそれで楽しいような気がします。
結局のところ、既製品に袖を通せない体型と同様に、既にガチガチに組まれた組織には存在することが難しいタイプの人間なので…。
既存の組織の解体と再構築という最中に参画できるというのは、色んな意味でクリエイター・マネージャー冥利に尽きる状況なのかもしれませんわな。

かつて、「何処にでも溶け込んでいく」と言われながら、「どこでも目を引くどこか浮いた存在」とも言われたオレが、新天地に求めるものが何れに当たるのかはまだぼんやりとも見えてはいませんが、見えていないからこそ楽しいような気がするのかもしれません。

ガッツで。
大好きな彼の言葉を反芻してみます。

臨死体験

臨死というほどのものではありませんが、ここ数ヶ月で何度か死に直結するような状態に陥りました。
いつ死んでも後悔のないように生きていくという心構えが出来たというか、そうせざるを得ない状態になったことはオレにとってはプラスに働いたのかなと思います。
体力は若干(?)落ちてしまいましたし、運動やら何やらにも制限がかかってしまいましたが、それでも心だけは折らないようにのんべんだらりと生きていけるよう心掛けたいなと思う次第です。

「らしさ」を失うのはやっぱり「らしく」ないし。
それを失ってまで長生きするってのは、管だらけになって意思も伝えられないようになって生き長らえるのとオレにとっては同義ですし。

まだ体は動くし、頭も人並みにちょっと足りないくらいには回ってます。
過去の自分に出来ていたことが同じ手法では出来なくなりましたが、その分、過去に見えていなかったものが見えますし、見出せなかった方法でなら近しいことが出来そうな気もします。
正攻法で出来なくなったことに対しては、やり方を変えて類似の結果を引き出せばいいだけなんだと思います。
いわゆる足りない子だったオレが幼い頃から知ってたことを思い出しました。

世界史とR.Kelly

ここのところ古いCDやら、そこからリッピングした音源を聴いています。
MP3プレイヤーを使い出したのが64MBが主流の頃と多分ちょこっと早かったので、当時からの手持ちのデータにはビットレートが低めで音に厚みがないものが多いんですが再リップもめんどくさいのでそのままです。
ただ、その音圧も記憶を辿るにはちょうどいい弱さで、じっくりと聴くというよりはBGMに流していた当時のことを思い出していくのがステキです。

R.Kellyの12playを聴いていて、高校のブレザーとバーソロミュー・ディアスを思い出したのは、世界史が好きだったせいなのかイヤフォンを突っ込みながら授業に出ていたからなのかはちょっと思い出せませんが…。

錆びた記憶

古い記憶を辿って、目の前の道具の使い方を探ります。
ひとつひとつの感触を確かめながら、何を動かせば何が反応するのか、何を覚えていて何を勘違いしているのか、そういったことをひとつひとつ試しては直し試しては間違えながら、ゆっくりとそれでいてしっかりと。
かつて何も知らずに同じ道具と向かい合った時の記憶は失われて久しいですが、その当時の自分の感想やぼやきといったものは何故だか妙によみがえってきたりして、どこか情けなくもあり懐かしくもある不思議な空気を楽しめたりします。

レンチのない中でペンチを駆使して螺旋をムリヤリ外した時の妙な汗、レフ版代わりの白カーテンのバカみたいな重さ、裁断された紙ゴミの冗談みたいな量と刃こぼれしたシュレッダーの嫌な鳴き声…。
直接は関係などないそういったことまでが記憶の片隅にはいて、手探りで思い出そうとする行為自体が何故だか楽しかったりする不思議。

錆びたと思ってはいても、実は記憶は鮮明で濃厚で…。
まだ思い出というには、ぐっと鮮やかな色で脳裏を過るのです。

今年は雨です

ここ数週間は、この10年の中でまったく踏み入れていなかったタイプの生活でした。
行動パターンはもとより、行動範囲や交際範囲に至るまでがガラリと変わって、自分自身に違和感を覚えることもしばしばです。
しかしながら、回り続ける自身の歯車の回転速度を緩やかなものに変えることで、いくつか見えてきたものは確実にあります。
それはかつて自分が不要と決めて捨てたはずのものであったり、未だかつて触れることすらなかった種類のものだったりしました。
それらを目で見て肌で触れてみて感じたのは、自分の視野の狭さであり経験の浅さや経験の抜けでした。

死にかけてみて得るものがあるなんて、なかなかに有難いというかなんというか。
まだまだ尻の青いガキですね。

南風の吹いた日

随分と時間を置いた再会は、時間をすっ飛ばしたような感覚でした。
誰もが年を経ていたにも拘らず、話し言葉や空気は数年前のそれと何ら変わることがありませんでした。

あの店に居付いた者だけが持ち得る感覚なのかもしれません。
今夜の心地いい雰囲気は訪れた店のそれではなくて、かつて腰を落ち着けた店のそれだったと思います。

ありがとう。
感謝のハグと握手を。
再会の約束を込めて。

ドレスコード

場所に合わせた服装ってのは確実にあります。
カッチリした格好が苦手なオレですら、そういったものを身につけなければ近づいてはいけない場所や行事ってのがあるのは理解しています。

明らかに敷居の高い寿司屋のカウンターに誘われ隣りの酒飲みとお茶を片手に語らっていると、洒落た格好の初老の団体や中年夫婦と思しき方々が品のある格好でカウンターや座敷に腰掛けるのが見えました。
こういった店に誘われることを想定して、オレもさすがにスーツではないですが、ドレスシャツにジャケットを羽織ってパンツもジーンズではありません。
ぱっと見渡しても他には仕事帰りと思しきスーツ姿の集団がいるくらいで、ちょっと高尚な場の雰囲気を壊す格好の人はいません。

少しばかり馬鹿な話に華を咲かせながら隣りのグラスの酒が気持ちよく空くのを眺めていると、予約なしの飛込みだというトラックジャケットにスラックスというちょっと不思議な格好の中年男性が暖簾をくぐってきました。
予約で埋まったカウンター横を座敷に案内される際に同伴者の姿が見えましたが、若干年齢層が高めながらスカルの入ったロングTシャツにホットパンツといった風体で、男女共に場の雰囲気にそぐわないというのが率直な感想でした。

普段はどこでもジーンズで行きたがりなオレもドレスコードに拘りはありません。
それでもやはり、最低限周囲に不快感を与えない程度には着飾るべきなんだろうなと思いつつ、オレは濃いお茶をすすりました。