「自分らしく、したいことをすればいい」
それは実に無責任なアドバイスで、 Details »
昨日と今日の間に
少しばかり過ぎましたが、受け入れがたい現実を受け入れてから4年が過ぎました。
外観や雰囲気はまるで変わることなく、自分自身まだ現実味はありませんが、ふとした拍子に息を止めるような痛みが襲ってきて、努々忘れぬようにと諭します。
受け入れてこそ生きることが出来る痛みがあります。
かつて自身が振りまいてきた痛みや悲しみや憎しみってものの、数や重みに比べれば対したものじゃありません。
そもそも痛みは比べて喜んだり悲しんだりする種類のものでもありません。
受け入れること、それを抱えて歩み出すことで、オレはオレらしくしていられると思うのです。
これを言い訳にせず、受け入れて昇華して初めて生きていられるんじゃないかなと。
生きるってことは腹を据えて自分の行く道を決めて自分の足で歩くこと。
「病や痛みも自分自身、それを忘れちゃいけねえよ」って諭すちょっと動きの悪い賢人がオレの左胸にはいます。
歳を経て思うのは、必要なのは1歩踏み込む勇気よりも1歩退く勇気だということです。
何かを成すのに蛮勇たることも必要ですが、大人であれば退き際をわきまえたいものです。
そこにメリットを見出せないのであれば、そこに留まり続けることでデメリットを被るのであれば、思い切って退くのも大切なことです。
それは切り込むことのそれよりも難しく、なおかつ評価されにくいことではありますけども、その技能というか感覚をもって初めて何かを身につけたと言えるのではないかと思うのです。
前へ前へというだけでは限界もきますし、適切なそれ以上のリスクを背負い込み、自身の許容量を超過したら破綻の可能性もはらみます。
要はすべてを自身だけで受け止められることでないのなら、攻めるだけでは自分の器という限界が来ると思うのです。
そこで満ち足りないのであれば、護るべきものがあるのであれば、リスクを抱えてなお上昇するために、それ以外のものを身につける必要があるのではないでしょうか。
マイナスのスキル…、というよりはギミックになるでしょうか。
幼い頃にジャラジャラとした過度な「足し算」の装飾を覚え、そこから不要なものを取り除くことを覚えた「引き算」のファッションを覚えたのと同じく。
「マイナスも2つ掛け合わせればプラスになる」
そんな言葉を思い出します。
心でも体でも持っている障害を不幸と思わない。
不便だったり寂しかったりするかもだけどさ。
心を飛ばすような惨劇を経験したヤツでも笑える瞬間は必ず来るはず。
そこに同情が生まれたらおしまい。
それがなければ付き合いはもっと深く広くなる。
そして、何よりも面白くなる。
オレの周りはみんなどこか欠落してる。
カラダであれ心であれ頭であれ、どこか足りない。
それだけに欲求が強いし繋がりを大事にする。
どんな罪を犯そうとそこに納得のいく理由があれば、納得のいく謝罪があれば、それが殺人だろうと受け入れる。
そういうのがなきゃ人付き合いは浅いし、つまらないものになるって信じてる。
イカレた感性であっても、オレたちにとっては真実。