自分のリミットがカチリとはまってみて感じることがあります。
自分がいかに無駄なことをしてきたのか、そしてその無駄がどれだけの副産物をもたらしてきたのか。
そう、無駄なことを無駄なままに捨ててきた覚えはオレにはありません。
オレにとって、周囲に無駄と映る行為や時間もまた、何かを生み出す為に必要なものだったのだと胸を張って言うことが出来ます。
たとえ、その結果が実を結んでいなかったとしても、次につながる何かをオレは紡いでいたのだと。
オレにとって無駄であっても、後続にとっての無駄は何一つしていないと言う自負があります。
オレの道に標を遺した先人がそうであったように、オレの跡を誰かしらが追ってくれたときに何かが残るようにしていると。
未来を失ってみて何か達観する人も多いようですが、どうもそこに至ってまでオレはひねくれもので居続けるようです。
まぁ、まして未来を失ったなんて思ってもいませんしね。
「足掻けるところまで、醜くとも足掻いてみせる」というのはオレの台詞ではなくて、オレに未来を見せてくれた先人たちの言葉を借りただけですが。
何て言うのか、悔しいですが随分と長い時間を経てもその先人たちを越えられるとは思えません。
それが達観という名の「諦め」を覚えない理由なのかもしれません。
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