夏の清涼剤。
ミルクもシュガーも要らない。
足すのは氷の鳴る音だけ。
昨日と今日の間に
忙しいというのは、心を亡くすと書きます。
実際に多忙な時期というのは、心の余裕のない時なんだと思います。
ただ、その瞬間こそ心が機能していなかったとしても、後々になって心に余裕が出たところで、多忙な時期に犯した失敗や五感から得た情報に向かい合うことに気がつきました。
つまり亡くしているわけではなく、心は閉じているだけなんじゃないかなと思ったわけです。
要は、心を閉じたいがために「忙しい」というのを言い訳にしているだけなのかなと。
亡くすことなどありはしないと知りながら、その免罪符にすがっているだけなのかなと。
オレ自身は心を自発的に閉じることがありますし、気づけば閉じたまま何年も開かない部分だってあります。
そちらに関しては開くことで自分の平常心が保てなくなるので、よほどのことがない限りはどんな相手にも開いたりはしません。
おそらく今後は墓の中まで持っていく類のものです。
墓の中まで障壁を作るべきものとそうでないもの。
その区分けをちゃんとすべきなのかもしれませんね。
少なくとも、もう準備を始めてもいい時期だと自分の名と同じ季節を再び迎えてみてそう思いました。
忘却というのが死の形だと思います。
忘れられてしまえば、そこには何も存在しません。
それがオレの描く死の形。
場合によっては、最初から存在しなかったことになるのかもしれません。
でも、それでいい。
いや、それがいい。
記号としての名前というのがあります。
役所や病院で自分を指し示すための名前といえば分かりやすいでしょうか。
待合札やカルテ番号と大差ない、識別コードとしての名前は、呼ばれたところで何ら感情を動かすことはありません。
少なくともオレはそうです。
名前をちゃんと呼んでもらえることが嬉しいと感じる人は、おそらく名前を否定する環境にいた人だと思います。
芸名・源氏名であったり管理番号であったり、本来の名前を使用されずに呼ばれる人ほど、自分の名前に対する愛着は強いんじゃないかなと、オレは思うわけです。
先日の悪戯電話に嫌悪にも似た違和感があったのは、本来の読み方をしてもらえなかったからかもしれません。
あの街で本来の読み方をしないことを許すのは数えるほどで、そのいずれもが深い関わりを持つ方です。
つまり、呼び出された場所とオレとの関係もよく知っているはずで、少なくともそれが何を意味するかは知っています。
深夜にかかる時間帯にブチ切れなくて良かったなと、不可思議な読みを持つ自身の名に感謝しました。
半年前に会ったらしいですが、半年前に飲み歩ける状態じゃなかったのは周知の事実。
となると、誰から番号が流れたかは…なー。
いた電もたまには悪くないでーす。
ちょっと面白かったのと、またかけてくるそうなので備忘のために書いておきます。
かつての自分が培ってきた知識や経験、それが残ることが重要であって、自身の残留などは問題ではないと考えていました。
しがみつくことを醜態と捉え、手離れのいい様を潔しと信じてやみませんでした。
それを全否定して突き付けられた言葉のすべては、真直ぐで辛辣で飾らなくて、それだけにオレの心を深く穿ったわけです。
残念なことにオレの言葉は相手の心を穿つことはありませんでしたが、それはそれで良かったのかも知れません。
諦めと達観は場を一にしない。
そんな当たり前のことを忘れていた自分が恥ずかしいですわな。
ただ「ありがとう」と言いたいです。
意識下にあって意識していない感覚というのがあります。
ぱっと見た光景を、実際は認識しているのに思い出せないというのに似ている気がします。
ここのところ意識を飛ばすことが増え、先月にはその影響で左肩の肩盤損傷をやらかしましたが、あの手の瞬間には周囲がスローモーションになるってのは本当ですね。
つい先週にどんな言葉を吐いたのかすら覚えていないくせに、階段に叩きつけられる瞬間にガッと伸ばした右腕の感覚や天地を変えつつある周囲の人の驚きの表情は、ひと月あまりが経過してもよく覚えているものです。
なんつーのか、記憶力の無駄使いをしている気がしてなりません。
結局のところ、この手の紡ぐものは涙だけ。
上っ面の笑顔をばら撒いたところで何も変わらない。
「お前は戻れない」と言った彼の人の声を反芻する。
貴方たちへの贖罪はいつか煉獄で。
罰も赦しもまだ早い。
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