夏の清涼剤。
ミルクもシュガーも要らない。
足すのは氷の鳴る音だけ。
昨日と今日の間に
カラオケで歌うのは、いつも決まって古い歌。
既に新しいものを覚えようという努力はしていませんので、それが原因の1つなのかもしれません。
ただ、心に響く歌であれば自然と耳に馴染んでいるはずなので、多感な時期に比べて感じるものが減ったのだと思います。
認めたくはないものですが…。
気づけば10年以上前の流行り歌しか分かりません。
CDを引っ張り出しては歌詞カードとにらめっこしていた過去の自分を思い出しつつ、ちょっと気恥ずかしい歌を歌います。
万物は生まれもった融点や沸点を変えることが出来ません。
より高い山にでも登るか、適合する相手と融和でもしない限りは。
そして、それは人にも同様に当てはまるような気がして仕方ありません。
オレの沸点はやや高く、融点もまたやや高く。
それを変えることを許すのは、居心地の良い場所か気の置けない仲間だけです。
久々に昼間に公共交通機関で長距離移動したんですが、線路立ち入りで10分ほど待たされたこともあって、比喩でもなんでもなく凍えそうになりました。
あの冷房って確実にスーツ仕様ですよね?
今日はジャケパンにドレスシャツだったんですが、ジャケットを脱いでいたせいか芯まで冷えました。
普段のラフで涼しいカッコだったら、ほぼ間違いなく風邪引いてたと思います。
チームマイナス6%とか聞きますが、夏場のスーツ着用を国令で廃止するだけで普通に達成できちゃいませんかね…?
なんだか、冷蔵庫に転がった缶ジュースの気分でした。
恋をするのは、人が言うほど当たり前じゃない。
大多数は、恋をしているはず、好きなはず、で一緒にいられる相手を恋人と認識する。
本質にさえ気がつかなければ、それは不幸ではなく幸福。
その幸福を守るため、本質から目を逸らす場合だって少ないわけじゃない。
—
そんなことを心理学者に熱く語られたのは、10代半ば。
受け売りで描かれた少女漫画を読んだのもその頃。
オレの根底にはずっとこれがあって、「はず」で恋ができません。
未だモテ期が来ない、モテない原因はここにある気がしてありません。
いや、こういう他人本位なとこが原因なのかもしれませんが。
けっ。
4年ぶりに再会してみて、その居心地の良さを再認識しました。
それぞれのキャラクターも変わらず、それぞれの立ち位置も変わらず、変わったところといえば在職者たちの牙が抜けたことと年を取った点、オレも含めた退職者がスーツを着なくなったことくらいでしょうか。
暴力的な会話を誰が嗜めるでもなく自然と笑い話に変わり、不味い酒も烏龍茶も乾杯の一声で最高のドリンクになり、一気に昔に戻ったような錯覚すらありました。
オッサンだけの同窓会、悪くありませんね。
「昼に出歩くこともあるんですね?」
久々の再会でそう言われるとは思いませんでした。
まぁ、基本的に太陽の光はおろか飲食店のライトも眩しくて堪らないんで、間違っちゃいないんですけども。
陽の光よりは月の灯りの下の方が魅力的なタイプです。
自分の人生の終わりについて間近に感じたことは幾度もあります。
文学的・比喩的なものではなくて、これ以上殴られたら死んじゃうだろうなーとか、隣りのヤツの次はオレが刺されちゃうんじゃないのかなとか、そんな分かりやすい直接的な要因によって。
ちょっと前に死にかけていたことを告げられた心臓のこともあってか、ここ2年ばかりは死について間近に感じることが増えました。
本音を言うと、愛について間近というか身近に感じることを増やしたいものですが。
ただ、後どれくらいだからアレを諦めようとかそういうのはキャラクターじゃなくて、どのくらい残ってるからどれとどれから手をつければどれくらいの余裕が残るかなーという方が「らしい」のかなと。
もちろん、それでリミットがフリーになる可能性は無きにしも非ずなんで、そうなったらなったで引き伸ばされたリミットを謳歌すればそれでいいわけです。
「覚悟を決める」ってのも暑苦しい響きが好きじゃなくて、「有限だからこそ、ガッツリ楽しもうよ」って方がステキなんじゃないかなと。
えっと、これはこれで暑苦しいですか、そうですか。
とりあえず、数年後に見てみたい光景が出来たんで、それを見るまではのんびり寝るのはおあずけかなーとは思ってます。
もちろん、それがどんな光景かはナイショ。
メッセンジャーで話をしている際に気がついたのは、自分自身が本当にストレートな物言いをするということです。
世間一般のそれとは同じかどうかは分かりませんが、自分の気持ちに本当にストレートなんだなと。
良くも悪くもループシュートやスルーパスが打てないんだなと。
まぁ、周りから見たらシンカー投げたり、キラーパスを通したりしてるのかもしれませんけども。
何というのか語弊を恐れずに言ってしまえば、彼氏つきの女の子に告白せずに終わる気持ちよりは、誰にも渡したくないと連れ去ってしまう気持ちの方が何となく理解できるタイプです。
いや、例えが悪すぎて自分以外にはまったく伝わりませんね。
言うなれば自分にストレートってこんな感じですかね。うん。
ツラの皮をいくら厚くして上り詰めたところで何ら伝わるものがないのなら、地位とか名誉とか肩書きとかも大して意味ないし。
自分を押し隠して語るものに価値を見出すことがあるとすれば、それはお芝居の中だけのことだと思うし。
みんな仮面つけて生活するのが息苦しいのは分かってるはずなのに、それでもそれを続けようというのはやっぱり地位とか芝居に非現実的な魅力を感じてるからなのかなとか思ったりもして。
オレにとってはそれが不思議なんです。
たとえ芝居の上ではステキでも本音が嫌なやつの顔には賞賛の言葉よりも唾を吐きかけたいし、地位が高くても酔いどれて肩を組んで歩けない相手とは仲良くなんかできないし、もちろん嘘が多い相手は何を信じればいいのか分からないし。
現実味のない非現実なんて、ワイヤーフレームで書かれたヴァーチャル世界と何ら変わりがないんじゃないかと。
そこに妄想で色付けをするんだったら、それこそ現実的に何かを欲して動いた方がいいんじゃないかと。
その辺が変わってると言われる理由なのかもしれません。
オレにとっては普通なんですけども、…難しいですね。
動物的と言われました。
悪い意味ではなく、そこに魅力があるという意味で。
動物的と言われますが、オレだって社会的地位や世間体を意識しないわけではありません。
ただそれよりも優先すべき事項が、オレにはあるというだけのことで、他の人たちとだって大きな差異があるわけじゃないわけです。
きっと、本来は禁忌とされていることを禁忌とせずに過ごしてきた日々があるから、今の自分があるんだと信じています。
オレにとって姿形や地位・名誉は、あまり大きな意味を持ちません。
だってそんなものはブランドタグや紙袋の類と同じでその人の趣向を指し示してはくれても、人としての本質を示すものにはなり得ないからです。
味方なのか敵なのか、好きなのか嫌いなのか、0か1か、白か黒か、それを判断する材料はそこにはありません。
むしろ判断に必要なものを包み隠す障壁にしかならないのだとオレは信じています。
そんな姿や思考が動物的…といわれる所以なのかもしれませんね。
動物に例えられるなら、やっぱりペンギンが良いんですが、そうじゃないのは薄々気づいています。
むわっとする夏の午後にはレモンを沈めて。
ガキの頃に飲んだのは三ツ矢サイダーよりもセブンアップ。
今にして思えば、当時からええかっこしいだったのかなとか。
やっぱり、甘すぎないのが好きみたいです。
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