fountain

夕暮れ。
童謡の流れる時間。
お家に帰ろう。

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キルキル

先日、タトゥーマガジンが目についたので読んでました。
刺青の次の手法として、カッティングとかいうのがあるらしいですね。
カッティングは体に傷をつけて、その傷跡を芸術として楽しむというヤツのようですが。
まぁ刺青やタトゥーを背負うことに多少なりとも理解はありますし、芸術と称してもいいような絵をいくつも見てはきましたけど、カッティングってヤツはちょっと受け入れがたいです。
載っていたのがたまたまなのかもしれませんけど、随分と稚拙な絵しか入らないように感じたんですよね。
それこそマウスの操作に慣れないヤツが、PCでお絵描きをしたというようなレベルです。
カッティングってのは、手術用のメスで傷を残すわけですから、色を入れ込む刺青よりも激しく出血しますし痛々しいです。
その結果がアレだとするとゾッとしませんね、ホントに。
火傷跡で似たようなことをするブランディングも似たような理由で受け入れられそうにありません。
体にシリコンや金属を埋め込むインプラントなんて、宇宙人にさらわれた時にだけ経験すればいいような気がします。
他にも色々紹介されてましたけど、さすがに説明する気も失せたのでやめにしておきます。
ところで、普通の電器店の書籍コーナーに、こういう雑誌が並んでいるのっていかがなものなんでしょうか。
さすがにオレも、児童書・絵本コーナーの隣りにあったのには面食らいました。
まぁ、体中にピアスしてたりタトゥー入れたりしているのって、仮面ライダーの怪人ちっくでアリなのかもしれませんけどね。
リアルに存在するとしたら、ライダーシリーズの怪人って、顔中に刺青入れたり角生やしたりしてるああいう人たちのような感じなんでしょうし。
そんなことを考えながら久々に熟読してみたら、なかなかに興味深かったんですけど、しばらく見たくないなぁってのが今の本音です。
痛い話とグロい話は、おなかいっぱい。
やっぱり痛みや傷を伴う装飾は、耳にピアスくらいで十分だと思います。

***

久しぶりに「カレーの王子様」を食べました。
なかなかイケるもんですね。
カレーとしてみなければ、普通に美味しかったですよ。
黄色いハヤシライスとでも表現しておけばいいんでしょうかね。
幼い日の感覚とは違いますが、こういうカレーもたまになら悪いものではないですねぇ。
明けて今日は激辛なグリーンカレーでも食べたい気分です。
やっぱり額に汗を浮かべながら食べるカレーやチゲ鍋が好きなようです。

可笑

昨日の続きちっくになります。
引き出しが多いというのもそうなんですが、「アタマがどうかしてるんじゃない?」と言われることも多々あるんですよね。
まぁ、実際アタマがどうかしちゃってるコなんですけど、ここじゃそういう意味ではなくて、どうしてそんな発想とか話が出来るの?という、好意的に解釈できる「どうかしている」というヤツです。
そういう言葉をかけられるというのは、創作的な仕事(本業:酔っ払い)をしてるオレにとっては素直に嬉しいことです。
それはさておき、実際のところ歌詞の解釈ひとつとっても、TV番組のキャラの解釈ひとつとっても、とにかく「おかしい」らしいです。
堂珍・川畑コンビのいつだかの冬に流行ったあの曲の恋人の手を暖める歌詞を「今月金ないんだよね。ガス代貸してよ~」と言いながら手を握ってるに違いないと解釈してみたり、ガチャピンとムックを龍の子とハンバーグと言ってみたり、というのは一般的におかしいらしいです。
まぁ、今さらこの性格を変える気もないんですけども、このある種のおかしな感覚によって得るものも多々あるのですよ、と言い訳してみることにします。
昨日の着眼点を少し変えるというのは、こういう少し変わった視点を持つということなのかもしれません。
少しじゃないのではないか、という鋭いツッコミは遠慮します。
きっと、こんな視点でものを見ているオレの引き出しは、寄せ木細工にでもなっているんだと思います。

新堀

話をしていると「引き出しが多いよね」と言われることがあります。
オレは成長していく過程で、色々な業界や生い立ちの人間と関わってきましたから、必然的に引き出しの数は多く、引き出しのサイズも深く大きくなりました。
でも引き出しの多さってあまり自慢にはならないんですよね。
たしかに引き出しの深さは一朝一夕に身につくものではありませんけど、多さだけであれば本やニュースをその気になって見るだけでも驚くほど増えるものです。
たとえ付け焼刃であっても、着眼点を周囲と少しだけ変えてみればそれと見破られることなんてありません。
これはオレの経験ですが、付け焼刃の知識で会話に乗ることができてしまえば、それより深い知識を持つ人は喜んで自分から、より深い話をしてくれることが多いのです。
後はその会話の中で、自分に有用と思える知識を吸収していけば、自ずと引き出しの深みも増すというわけです。
大切なのは引き出しを増やすことではなくて、その新しく増えた引き出しをより深く掘り下げていくことではないのかな、なんてちょっとええかっこしいに考えています。

ロバの口真似

キーボードがブチ壊れまして、朝一でキーボードだけ買いに行ってまいりました。
まだ慣れないのでタイプミスを多発してしまいますが、まぁじきに慣れるでしょうってことで。
んで、まぁ先日購入したカバーオールにジーンズというカッコで、電器屋まで自分の足で走ったわけですが。(現状オレにはチャリという足すらありません)
ジェルなどをつけていないのでアタマが茶色、なおかつちょっと昼間の人っぽくない雰囲気。
こういう兄ちゃんが、安キーボードのみを購入なんてマニアな買い物をするのは珍しいのでしょうか。
明らかに周囲の視線がザクザク痛かったです。
店員のオバちゃんの「キーボードのみでよろしいんですか?」という質問の意図が分かりませんでした。
キーボードが壊れたらキーボードだけ購入するのが当然じゃないかなぁ、と思うのは一般的じゃないのでしょうかねぇ…。
「いえ、友達に頼まれたんで」と言ったボクは小心者です。

楽しむために

忘れていれば、分からなかったのかもしれません。
久々に味わったのは、違和感と寂寥感の2つだけでした。
以前はなぜあれほどまでにテンションを上げられていたのか、不思議なことに今は見当もつきません。
今まではかなり無理をしていたのだなと気づいてしまったのは、先週の飲みがあまりにも楽しすぎたせいでしょうか。
心から笑える酒の席とそうでない酒の席では、料理の味も酒の味も、笑いの質も話の方向も、すべてが雲と泥のように違ってくることを、思い出してしまいました。
酒を酌むのは仕事だけを前提とした人間ではなく、やはり気のイイ毒吐きがいいものです。
「一生に飲める量は決まってるんだから、楽しい酒と美味い酒だけ飲めばいい」
ふと、誰かの台詞を思い出します。

30秒の奇跡

贖罪の羊になることを望むわけではありませんが、自らの犯した罪を裁かれたいと望む気持ちを理解することはできます。
神父や僧侶への懺悔という文化は、そういう人間の罪の意識から解放されたいと願う気持ちを具現化したものだと思っています。
実際のところはそれで解決する程度のものは、罪として扱われないことの方が多いような気がしますけども。
犯した罪の重さにおののきながら生きていくよりは、犯した罪を誰かに裁くなり許すなりしてもらいたいと思うのは、人としての正しい本能なのではないでしょうか。
でも、オレは誰かに裁いてもらおうとは思いません。
許しも裁きも得ないことが、オレにとっての贖罪の形ですから。

羊が食べたくなったから、ショクザイノヒツジと書き始めたわけではありません。
きっと。

大体、あれはヤギだし。

エヌ<エフエフ

サイト上でのつながりのある方がいらっしゃいます。
その中の一握りの方とは、酒を酌み交わすほどの仲になったわけですが、やはりそれは例外的な出会いと言えます。
メールをいただく際に、「生活感がない」とか「年齢がつかめない」などという旨の言葉をいただくことは少なくありません。
しかしながら、ハンドルを本名から1字引いただけにしていることで主張しているように、オンラインだろうとオフラインだろうと、それを切り分けるような真似はしたくありませんし、してもいないつもりです。
ネット上のように匿名性を増す世界では、普段は大人しく自分を押し隠すような人間の方がより強く自己主張をするような面が見受けられます。
それがエスカレートすることで虚言癖やネット依存につながり、そこから抜け出せなくなる人も少なくはないでしょう。
それは居心地がよいというよりも、そこに依存しなくては本音を話すことさえ出来なくなるからだと思います。
オレはそういう風になりたくありませんから、バーのスツールで隣り合った仲間と話すのと大差ない気持ちで言葉を書きますし、BBSのレスやメールを返しているつもりです。
酒を酌み交わしてみて相手からかけられる言葉は、「イメージと違う」よりも「想像通り」という方が嬉しいのです。
オンラインよりもオフラインのつながりを、オレはより強く求めたいのです。

生意気にも今夏はシルクスクリーンで、Tシャツでもプリントしようかと思ってます。
でも、袖部分のプリントデザインしか浮かんでないので、投げ出す可能性も7割前後。
ま、やるとしてもプリントするのは10枚程度なんですけどね。

揺籠

歩き慣れた場所をいつもとは違うメンツで歩くと色々なものが見えてきます。
見落としがちだったものや、不意に思い出すものというのも多々あるものです。
行くことがなくなって久しかった店に足を運ぶことにしたのは、ほんの気まぐれに過ぎません。
ただその気まぐれのもたらしたものは、決して小さなものではありませんでした。
離れてみて改めて見つけることのできたものがいくつもありました。
それが喜ぶべき方向に進んだものであれ、悲しむべき方向に進んだものであれ、再発見できる心の余裕を持てたことを素直に喜びたいと思います。
歳が二回り小さなオレの友人と同じように、シーバスと観覧車とを素直に楽しんでくれたあの2人に感謝。
時間とともに移り行く街並みの中で、変わっていくものと変わらないもの、その双方に心を動かされ続けたいと思いました。
心が錆びつくことのないように。

結局、カバーオールジャケットを購入しました。
色味は薄めのグレイ、素材はデニムよりは薄手のコットン。
立て襟スタイルがオレの中では流行っているようで、今回もそれに沿ったチョイスになりました。
チンウォーマーまでついているのは、春先というよりも秋口のためでしょうか…。
着込むほどに当たりが出てくれそうなので、これから先育てていくのが楽しみです。

シャイライト

「目を閉じるとコトバが浮かぶ」
そんな状態になることがたまにあります。
感性が全力で回転して、様々な言葉を紡ぎ、口や手を介して1つの文として吐き出される。
あたかも自分の力ではないかのように、言葉が湧き上がってくる。
「神が降りてくる時間」と表現するような人もいますしかつてはオレもそう思ったことがありますが、今はそうは思いません。
自分の中の感性が精一杯に、感覚を言葉に変換してくれているのを感じますから。
以前は書いたり話したりという速度が、湧き上がるそれに追いつかないようなことが幾日も続くようなことがありました。
今となっては、それは数ヶ月に1度来るか来ないかといった程度の頻度になってしまいました。
自分の感性か表現力のいずれか、それとも双方が衰えたのだと思います。
感じ表すことが衰えるのはオレにとって、体力の衰えよりも恐ろしいことです。
感性を喪失することは、自分の「心」そのものを削り取られていくように思われるからです。
コトバを吐き出す瞬間、その衰えはより明確に感じられ、背筋がゾッとする感覚に襲われます。
しかし、だからこそ、オレはコトバを紡ぎ続けようと思います。
今あるものを決して失わないように。
かなうことならかつての感性を取り戻し、更なる高みにあるものを感じるために。

バックシート

オレの肌は黄色というよりも白なわけですが、予想に反して日焼けはします。
あの色白民族の皆さんの、赤くなったらそれで終了という体質ではないのですよ。
なので、日焼けをすると「別人」だと言われることが多々あります。
普段とまったく違う肌色をしているせいというより、日焼けがオレのイメージにないという方がより正確なのでしょうね。
ただ、黒くなってから白くなるまでのスパンは非常に短いです。
例えば、土曜に日焼けした部分は月曜には白くなるというくらいに。
なんつーのかな、リバーシみたいなもんです。
日焼けしていないメンツに入ると白くなり、日焼けしてるメンツと遊ぶと黒くなるって感じで。
さて、今年は焼けるか焼けまいか考え中です。

星とナス

サボタージュ日和ってことで、昨日は遊びました。
遊んだ相手は気持ちのいいステキカップルでした。
コシの強い蕎麦に始まり、オレが酔い酔いでたどり着くのが困難を極めた〆のバーまで、リラックスできました。
随分と間の空いた再会にもかかわらず、余計な気遣いなどする必要もなく楽しく平日の横浜を遊び倒すことに成功しました。
ありがとうございます。

えと、やっぱり乗り過ごしました。
今回は歩いて帰れる距離で良かったです。
でも遠かった…よ。

上品な猫みたいな

海の近くというのがイチバンしっくりくる土地だと思います。
他に目立つものは何もなく、かといってどこかの近くという場所でもありませんので。
何の目的もなく歩き始め、雑貨屋をめぐり、肉屋のコロッケを歩きながら頬張り、お茶を片手に海まで歩く、そんな楽しみ方をオレはこの土地で覚えました。
どんな国でもそのスタンスを変えずに過ごすことで、ツアー旅行では得られないような経験や交流を得ることができました。
そういう楽しみ方を教えてくれたこの土地に生まれたことを感謝するとともに、幾度か離れて外から見ることで、その良さと悪さを知ることができたことにも感謝します。
オレの体に流れる時間は、今はあの夜の香りの漂う街のそれではなく、この潮の香りのする田舎街のそれに重なっていると信じています。

電話

振動とともに見慣れない着信番号が液晶に浮かぶ。
彼の番号だというのに気づくのには、しばらく時間がかかった。
オレから連絡を取ることを止めていたのは、彼が成長してから会いたかったからなのか、それともただ面倒だったからなのかは分からない。
ただ、今彼からの電話を受けて、胸に去来したのは安堵。
持ち前のキャラで楽しくやっているんだろうなと思いながら、ケータイの着信ボタンを押した。
「はろぉ~♪」
週に1度は顔を合わせていた頃の、あの気の抜けたようなそれでいて楽しそうな声が耳をくすぐる。
幼さを残す彼の顔がオレの脳裏によみがえった。

***

メール溢れてます。
ここ数日の仕事のスカウトメールの量から、自分の現状の評価と市場価値とを見つめ直したくなります。
春だからなのか、尋常ではない量に我ながら唖然としています。
とりあえず、インパクトのあるタイトルのものから拝見していますので、急ぎのメールはインパクトのある件名でお願いします。

リンクを1件追加しました。
海系コンセプトの「BlueSpice」というセレクトショップです。
Linkからどうぞ。

ボスしけてるぜ

デジタル一眼レフの絶好調な売り上げと平行して、街中で大きなカメラをぶら下げている人を見るようになりました。
彼らがどんな被写体を撮っているのかは見当もつきませんけど、写真好き人口が増えるのは歓迎するべきことでしょう。
でもオレは首から提げたり常時カメラを剥き出しで持つような、「写真撮るんだぞ~」と無言で訴えるようなスタイルはできません。
オレはほとんどの場合ヒップバックに放り込んで持ち歩くので、突然訪れるようなシャッターチャンスは当然の如く逃しますけど、それはそれでいいのだと思っています。
気張って神経をピリピリと研ぎ澄まして撮るような商業的な写真は好きではありません。
あるいは神経をすり減らさなくては成らない状況下での撮影もしたいとは思いません。
オレにとっての写真は、飽くまでも好きなものを好きなように撮る趣味のレベルでしかありえないのです。
他の事を楽しむついでに写真も楽しむ。
写真好きというには邪道かもしれませんが、ヨコシマなくらいがオレらしいのかもしれません。

***

>過去の写真はアップされないのですか?(フォームメールより)
アップした方が良いですかね。
サイズを検証してみた結果、ベターショットだけでも6メガを越える容量になるんですけども…。
正直しんどいサイズです。

承諾と嘘

森を見て木を見ないとか、木を見て森を見ないなんて言葉があります。
前者は全容だけを見て構成要素を考えることのない様、後者は部分にばかり固執して全体像を見失うという様を示した言葉だったと思います。
全体像をつかみつつ個々の構成要素にも気を配れというのは非常にもっともな言葉だと思います。
しかしながら、こんなことを言うと不快に思われる方もいるかと思いますが、最近は「山を見て海を感じる」というようなある種おかしな感覚を必要とされる場合があるように思うんです。
殊に創作するような場面においては。
一般とは違う視点でものを見て、そこに何らかの新しいものを感じ取るあるいは見出すことができれば、一歩先を行くものを創作できるのではないかと思うのです。
卓越した視界や先見の明というのは、そういう感覚によってもたらされるのではないかなと。
ただ、先を行き過ぎる人は認められることはないのでしょうけど。

職場のスクリーンセーバーをキャシャーンにしたわけですが。
相棒犬フレンダーのキャスティングをご存知の方はいらっしゃいますか?
オレは、今度こそ的場浩司がやってくれるんじゃないかと踏んでいるんですけども。