fountain

夕暮れ。
童謡の流れる時間。
お家に帰ろう。

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気分でいこう

どこかで何かを諦める、ということが当たり前になってきてしまった気がします。
確かにそれは大切なことなのですけど、諦めが早いなというのが最近の実感です。
自分の能力に限界や見切りがついたわけではありませんが、一般的な境界を視点としてその前後であれば妥当としてしまっている感が強いのです。
決して妥協点が低いわけではないのですが、以前のようなアレもコレもという貪欲な感覚が薄れていっているのが如実に感じられてどこか怖いのです。
譲れないものを少しずつでも失っていくのは、自我の崩壊を連想させて怖いのです。
既に向こう見ずな年代ではありえませんけど、それにしたってもっと熱い人間であり続けたいと願うのはオレだけでしょうか。
熱さを失った時に男は男じゃなくなる、そんな気がして仕方がないのです。
ずっと男であり続けたい、それがオレの願いなのです。

飢えや渇きとはここのところ無縁です。
でも、ドライな発言という意味での渇きは常に身近にあります。
ただ、そういった発言とは裏腹に、ドライな態度を取ることが難しかったりするのが本音だったりします。
ドライな悪者を演じるのは楽しいですし、ええかっこしいのオレにはちょうどいいのですが、最後まで悪役を演じきるのは非常に難しいようです。
周囲に甘いからなのか、周囲へ甘えているからなのか、どちらなのかは分かりませんが。
やはり、現在の環境と周囲の人たちを愛していますし、その環境の中にいる自分自身を愛しているのでしょうね。
そして、それを崩すことを極度に恐れているのかもしれません。
そんな臆病者の姿を「優しい」と言われるのは正直悪い気分ではないですが、気恥ずかしかったりするのです。

賢くあろうとするなら、もっとドライに対応しても良さそうですが、ドライになりきれない部分が最近は特に大きいです。
古傷を持つものが、それに似た傷を負いかねない相手に、救いのヒントや手を差し伸べるのは、当然だと思い込んでいるからでしょうか。
彼のこれから始まるであろう労苦をオレはよく知っています。
そんな彼の手を突き放すことなど考えもできません。
ハッキリ言えばバカなお人好しです。
でもそんなバカなところもオレらしい。

リニューアルとりあえず終わり。
こんな感じでいかがでしょうかね。

以前は百足の異名も取るくらいに靴大好きでした。
今もそれは変わらないんですけど、以前ほど数を揃えるってことはなくなりましたね。
ちなみに一時期のエアマックスの熱狂的な収集に代表されるような、靴を実用的に扱わない神経は理解できません。
靴は履いてこそのものであって、履くことなく飾っておくのは、傘が濡れると困るから雨が降ったら早く帰ろうというのに似たようなものになるのだと思います。
ブーツからスニーカーに至るまで履いてこその靴だと思うわけです。
なので、ヴィンテージとかそういう感覚は当然ありませんし、吐き潰しても痛くない金額の靴しか欲しいとは思いません。
そういう意味で、異常なまでの履きやすさとギリギリ許せる金額のカンペールというブランドはステキだと思うのです。
デザインの遊び心も、イタリアのそれと異なるラテンのセンスがあふれていて大好きです。

悲しくてやりきれない

辛い時とか苦しい時に限って我慢するようです。
可哀想だと頭を撫でられたいわけではないし、甘えるなと殴られたいわけでもないですから。
結局のところ、自分を遥かに超える力量を持っていない限りは、無条件に自分を救い出せることがないことをよく知っていますから。
幼児のそれのように泣き叫ぶことを良しとしません。
脆弱さをアピールして庇護を得ようとするのは、自分の意思を強く持ったときに捨てました。
それと同種の方法は、同情を引いて問題を解決するときにだけ用いればいいのです。
何より耐える方法はそれほど難しいものではありませんしね。
コツさえ自分でつかんでしまえば、あとは慣れでどうにかなります。
痛みを存在する証として、傷を経験の証として、困難を成長の糧として、無理やりにでも正のものとして考えれば少しだけ前に進めます。
万人に通用する方法ではありませんけどね。
手厳しいかもしれませんが、自ずから先を望まないものには神も悪魔も微笑みません。
それだけは確かです。

オレは毒吐きですし、あまり優しいとは思いません。
罵倒も嘲笑も冷笑も得意ですし、喧嘩も苦手な性質ではありません。
でも、話し言葉や行動のすべてが、そのままの意味を持っていると捉えられては寂しいです。
バカという言葉に、侮辱や罵倒の意味しか感じ取れない相手はそれはそれで構わないんですけど、侮蔑の感情でしかその言葉を吐けないような人間だと判断されてしまうのは正直なとこ寂しいです。
マイナスなイメージの言葉は裏を返せば、あなたはその程度の人間じゃないだろうっていう意味だと思ってます。
そういう裏を読み取れない相手の吐く毒は、毒ではなくて愚痴の類になるのだと思います。
マイナスな言葉をマイナスとしてしか受け取れないとか、マイナス材料を集めてマイナスしか導き出せないのなら、どんな失敗や困難からも何かを見出すことはできないでしょう。
オレはその裏にある愛情を感じ取れるなら、きっと喜んでその毒を受け入れます。
毒物は時として劇薬として用いられることを、オレは知っていますから。
どんな毒にも意味と利点はあるってことを。

***

歳月は何を変えたか。
オレは変わりゃしない、強いていえば老けただけだ。
どんだけ不利益被っても、オレはオレには負けない。
絶対に負けない。
残るのはそれだけでいい。

猫の日

3年越しの完結編、ようやく観てきました。
好きな人にはたまらないあの感覚は今回もまた健在。
原作を知っていようがいまいが、ドラクエ世代は楽しめること間違いなし。
原作を知らなければ気づかないような個所で1つだけ気になるところがありましたけど、それは大人の事情でしょうね…。
3時間半に渡る上映時間も、練り込まれた脚本と世界観のおかげか長いと感じることは少ないはずです。
ほとんどすべてのファンタジーの源流がここにあるというのを実感できました。
人間関係の深さに思わずグッとくるシーンもいくつかあって、ただのファンタジーで終わらないところがこの物語が長く愛されている証拠といったところでしょうか。
不覚にも泣けます。
コレは3つまとめて観る価値アリだと思います。
DVD-BOXが出るなら買いです。
久々に観たな~って気分を味わえた気がしました。

無印

出始めの頃のノーブランド的な考えから変遷を繰り返し、MUJIという名のブランドに成り果ててしまいましたけど、昔と変わらず好きですね。
そして、パリの街にもあの商品群があるかと思うと不思議な気分です。
無印の服が、欧州ではZARAやH&Mを相手に戦っていると思うとますますもって不思議な気分です。
まったく話はずれますが、パリ滞在が長くてあまり服にお金をかけずにいた人は、TATIというスーパーをご存知かもしれません。
あのスーパーの異様なまでに安く、生地も縫製も褒められたものではない洋服群に出会ったときは、オシャレで高級な街というパリの既成概念をブチ壊されたものです。
シャンゼリゼを歩いてブランドの紙袋をたくさんぶら下げて歩くくらいなら、蚤の市やそういうちょっとアレな服屋めぐりをして掘り出し物を探す方がオレは楽しいと思います。
本題に戻りますが、先日久々に無印のショップに出掛けたんですよ。
まぁセールも一段落しているので空いている中を落ち着いて、春物の立ち上がりと売れ残りの山の服を見ていたんですけどね。
シルエットが少しだけ細くなったなぁというのだけが感想です。
飽くまでも少しだけっていうのがポイントですが、可もなく不可もなくなベーシックで使いまわしやすい服を買うならアリだなって思いました。
チャリは相変わらず良い出来でした、あれはホントにステキです。

罪深く愛してよ

食いつきたいようなキレイな足のおねいさんでも、電車の中で携帯電話をかけられると萎えます。
うだつの上がらそうなこ汚いおっさんでも、マナーを知らないクソガキにキチンと注意してるのを見ると心の中で拍手します。
プラスであれマイナスであれ、人の評価を勝手に変えるのはほんの小さなきっかけから。
大きな括りで考えればほんの些細なことなのに、それがとてもカッコ良かったり、どうしても許せなかったりするから面白いです。
殊に一目惚れとか憧れが先行した出会いや付き合いっていうのは、勝手な理想像と現実とのギャップが埋まらずに壊れていくのが、ちょっと離れた位置から見ている分には笑えます。
当事者、しかも惚れられたり憧れられたりする側になってしまった場合は、とても笑っていられる状態ではありませんけども。
ちなみにオレは無駄に理想像をつくったりしない性質です。
顔をつき合わせている最中に、探りを入れるというか少しずつ表皮を剥がしていくように「その人」を知っていけるのが、たまらなく楽しいのでね。

感性

ダサイというか垢抜けない印象が、いわゆる日本のオヤジからは強く感じられてしまいます。
何が足りないかというと美的センスとか自身の姿を省みることとか、そういったものなのでしょうか。
「見てくれにはこだわらねえよ」そういったことを言いたがる人は多いかもしれません。
でも、外観にこだわらないことと感性を磨かないということは、まったく別次元のものであると思うんです。
感性を磨けないというのは、美味しそうな料理に涎を垂らさないとか、夕焼けを見て美しいと感じられないとか、そういった次元のことになってくるんじゃないかなと思うんです。
何の目的もなくただ街をぶらつくとか、ふとしたところで出会う絵画に目を留めるとか、そういった余裕が日本のオヤジには足りない気がするんですよね。
それと同様にスーツが作業着になってしまっては着替える面白さもありません。
小物やシャツにでも少し遊び心を加えるとか、休日の服飾に気合いを入れるとか、幼い日に新しい服を下ろした時のあのドキドキするような感触を思い出せたなら、少しはカッコイイオヤジに近づけるんじゃないかなと思ったりするんですよね。
ちなみに、オレのオヤジ(デニス・ホッパー似)は、服には無頓着なようでいて実はこだわりの多い嫌なヤツです。
あの頑固なまでのこだわりを良い方向に少しだけ真似てみたい今日この頃です。
でも考えてみりゃ、オレも日本のオヤジ世代なわけですよね。
日本のオヤジらしくないと言われるように、自身の感性を磨くことを忘れないように心がけていきましょうかね。
自分を省みないのは恥ずかしいことですから。

日記

日記というか雑記というか。
結構な月日書き続けていますけど、何故なのでしょうかね。
オレの中での理由は明白なんですけど、他にこの手のサイトを公開している人たちはどうなんでしょうか。
ネタっぽい日記を公開するのであれば、笑いを取るのが目的なのだと推測できますけど、普通の日記とか雑感とかそういうものを公開している理由って何なんでしょう。
感情の捌け口、ゲロ袋代わり、そんな風に思っているのならローカルでハードディスクいっぱいになるまで書き溜めれば良いわけですし、100歩譲ってそれを認めるとしても交流の場である掲示板の設置やメアドの公開なんて必要がないものだと思います。
そういったものを設置するからには、何らかのアクションを閲覧者にとって欲しいのだと感じます。
オレの場合、サイトが軌道に乗ったばかりの頃は飲み仲間でもできればいいと思ってました。
そういう集まりの前に、自分が大体どんな人間なのか知ってもらえればいいなってくらいの軽い気持ちでした。
実際のところ、このサイトつながりで飲み会もやりましたし、飲み仲間も少なからずできました。
でも、今はそれが理由ではないです。
今は言葉を錆付かせないために書いています。
オレは少しばかり文を書くのが好きだったから、この能力を衰えさせることなく、そして今よりも少しだけ伸ばしたいと思っています。
役者が心に響く演技をする、ライターが鋭く抉り込むような文章を書く、モデルが引き込まれるような表情をする、…こういったことは全て弛まぬ努力の賜物だとオレは思っています。
たしかに天賦の才あってこそのものだというのは否めませんけど、その才を保ちさらに向上させるのは努力以外にあり得ないものだと信じているのです。
残念なことにオレに天賦の才はありませんけど、オレは自分の望むように文を書き続けたいと願うのです。

最近、釈由美子がステキすぎです。

キミにKISS

落ち着いているとか怒らないとか言われることがあります。
その実、ガキっぽくて短気だったりするんですけど。
受動的に見えて、実は能動かつ攻撃的な性格をしていたりするわけです。
その性格が顕著に出るのが色々と上手くいかないときで、大概の場合は自分でもダメだなぁって感じるまでグダグダになります。
グダグダになる方法は、周囲に絡むことなく飲んだくれる平和的な酔っ払いにはじまって、誰彼構わず牙を剥くというような攻撃的な喧嘩好きまで、様々ですが始末が悪いという点ではどれも変わりがありません。
とりあえず、そういう際に被害を受けないために精神状態が病んでいる際の見分け方を1つ。
一言で表せば、「ロック好き」になる。
もともとロック好きなんですが、普段はヒップホップやR&Bを中心に聴いています。
カラオケでの選曲や普段のイヤホンから流れる曲が、ロックに偏り始めたら要注意と覚えておいていただくと良いです。
ロックンオムレツならセーフです。
ちなみに最近は、Aerosmithとミッシェルが好きなようです。

楽しいと楽しませるのは違います。
楽しませることを楽しめなくちゃ、ホスト役に名乗りを上げる資格はないはずです。
少なくとも自身の主催であれば、オレは楽しませることをまず考えます。
わがままを旗印に掲げるオトコですら、それくらいは分かっているのです。

花葬

何もかもをサボってのんびりダラダラと過ごす日があってもいいと思います。
でもサボっちゃいけないことが、オレには1つだけあります。
オトコをサボるのだけはいけません。
もともと男前でもないのですから、少しばかり気を張っていなくちゃ見られたものではないのです。
よく結婚したら太ったとかブサイクになったとかいう話を耳にします。
アレって酷いことだと思います。
異性を惹きつけるために必要なだけの身嗜みとか心遣いを失ってしまったら、雄とか雌として失格だと思うんですよね。
旦那が太ったのはナンパという名の狩りをする必要がなくなったからで、「浮気の心配がなくて安心」とかわけの分からないことをおっしゃる奥様もいらっしゃいますけど、よく考えてみてくださいね。
貴女自身も狩りの対象から外れてるってことにはなりませんか?
そういうものが安定した男女の関係だというのであれば、オレは受け付けませんね。
常に惚れ直させるオトコでありたいと思いますし、常に惚れ直させるだけのオンナであって欲しいと思いますから。
自分がオトコであること、オンナであることを忘れちゃいませんか。

体質

口説くのは体質というか本能なのだと思います。
初めて入った店が気に入ったら、スタッフや常連客を巻き込んでというか巻き込まれてというか、その場を盛り上げるのはオレの悪い特技の1つです。
なので2度目に顔を出したとしても、常連のような扱いになってしまうのは致し方ありません。
そういうのはかなり楽しいのでやめるつもりもありませんし、やめられるとも思いません。
人に言わせれば「変わり者」の行動なのかもしれませんけど、オレにとってはそういうのが日常なわけです。
通い詰めてようやく顔を覚えてもらうというよりは、最初からインパクトを与えてしまって顔を覚えられてしまうというのが多いのです。
派手な花火は楽しいものです。
名も知らぬ人たちとの邂逅に華があるというのは嬉しいものです。
悪癖を反省することなく楽しんでしまうというのも、体質といったトコでしょうかね。

手向けの酒は未だ乾かず。
酔うなら夢より酒がいい。
赤子のそれと変わらぬ涙など、失笑の種にもなりはしない。

司教の命日

抑制する欲求があって初めて禁欲的と言うべきなのだと思います。
例えば、ゲイセクシャルのオトコを裸のおねいさんの集団の中心に置いて、発情しないのは決して禁欲ではないわけですよ。
オレはSなので、セックスの趣向もその性格そのものなわけで、言葉責めとか縛りとかかなり好きです。
でも、世間的に少なくないMなお兄さんにしてみたら、そういうのは理解の外というか異質なものになるんじゃないかと思います。
オレの中で自分自身が縛られるのが想像外というか、性的興奮をもたらさないのと同様に。
なんていうのか、S的なエロさの溢れるキャラで通っている以上、こういうのをしたいと思う気持ちを失ったら魅力が半減するんだろうな、なんてふと思ったり。
ストイックなオトナの男になるのはまだまだ先なようです。
ことによると、これから先もそういうオトナになることはないのかもしれません。
それも悪くないですけどね。

その味は健康のバロメータになり得るようです。
樽で寝かせた酒の味が鉄のそれと重なる時、オレの調子はあまり良くないと言えます。
体調が優れないときもそうですが、主に精神的に荒んできている時はさらに顕著に表れます。
食事から味を見失い、グラスに注いだカミュからは鉄の味しか感じない、といった具合です。
美味しいものにはある程度のこだわりがあるオレがそういう状態の時は、あまり機嫌が良くない場合が多いようです。
気分転換に飲んだ酒が鉄の味なら、気分良く酔えるはずなどありませんからね。
どうせ不味いなら、質より量とばかりにガバガバ飲んで悪酔いすること必至です。
同様に普通の状態でも美味しくない酒を出されると、不機嫌かつ喧嘩っぱやくなります。
「お酒は美味しく適量を」
どこかで見た標語を思い出します。