fountain

夕暮れ。
童謡の流れる時間。
お家に帰ろう。

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文字と写真

リニューアル案というか、テンプレートを作成しながらふと思います。
文字重視で行くべきかビジュアル重視で行くべきかと。
メンテナンスを考えれば当然のことながら文字重視が良いのですけど、インパクトに欠ける面も多々見えてしまいます。
しかしながらビジュアル重視にしてしまうと、やはりメンテナンスの際により多くの手間がかかってしまいます。
クライアントがいるのなら、その意向に沿う妥協点を見出すこともできるのですが、自分自身のサイトでは、どちらが好きなのかという1点にのみ絞られてくると思います。
最近では写真が好きなんですよね、きっと。
日記を載せているサイトにしては大きすぎる写真が並ぶ、リニューアル案を見て実感しました。
文字よりも雄弁に語る写真を撮れれば、日記など書く必要もなくなるのでしょうか…。
それはそれで寂しいことですけど。

太陽手に月は心の両手に

口が悪いと言われます。
柄のあまり良いとは言えない連中と楽しく過ごしているうちに、いつしか自然と身についてしまったのでしょう。
生まれつきと言われても否定はしませんけどね。
オレはまやかしのような甘い囁きや美辞麗句で一時の好感を得たいとは思いません。
言葉の意味の取り違えで生じる衝突やそれに伴う痛みは、決してマイナスではないと思っているからです。
当然、関係修復が不可能になる前に、美味いメシやケーキを挟んだ会話が必要になることも忘れませんけどね。
自分にストレートすぎる言葉が「毒」と受け取られるのは構いません。
ひとつの言葉やシチュエーションを「毒」にも「劇薬」にも転じられるのが、オレの強みであり弱みであることを自分自身がイチバンよく知っていますから。
ただし、必ずしも自分にプラスになるようにだけしないところが、天邪鬼の本領発揮といったところでしょうかね。

大河ドラマは誇りを見失ったのでしょうか。
外国語講座は殻を破りましたけど、似たような手段で殻が破れる種類のものではないでしょうに…。
とりあえず見るに堪えない殺陣は勘弁してほしいものです。

持つ者と持たざる者

双方のみで分かり合える時はこないのだと思います。
水と油のように混ざると思いきや分かれてを繰り返すことはあったとしても。
持つ者が持っているものを失ってもかつての感覚を忘れずにいたとすれば、持たざる者が何らかの形で持っていなかったものを得て持たざる時の自分を省みられたとすれば、水と油における石鹸水のように、双方の確執を取り除くあるいは和らげることもできるのでしょうけど。
しかしながら、喪失感や驕りというものは簡単に過去を忘れさせてしまうらしく、双方を持ち合わせるというのは難しいようです。
オレ自身も驕りや喪失感によって、大切なものを見失うことが数多いです。
大切なことを忘れずにいたいと切に願います。

花菱でまたオーダースーツとオーダーシャツの格安共同購入を開催しているようです。
半期に1度の好機ですから、オーダー入門として試してみるのも良いと思います。

キスして抱きしめて

横浜に行ってきたわけです、昼間にね。
春節目当てではないので、中華街まで足を伸ばすことはありません。
西口に下りて目当てのデジカメ周りを購入後に、ハンズのカフェでお茶。
下手に店を選ばずに失敗するならここのカフェがステキだと思います。
お勧めは石のパフェというアイスパフェ、カシスアイスの酸味が周囲の甘さを緩和したり盛り上げたりとなかなか面白いです。
「ゴリラキッチン」というステキな名前のカフェに惹かれて西口散策を開始。
独創的なカフェやらバーやらバールやら、見ないうちに随分と増えましたね。
こきたないカッコでコジャレたデートでもしたい気分になりました。
ちょっとした場面をパシャパシャと。
こういう雰囲気のある店たちの味のある色合いは銀塩に軍配が上がると思います。
やっぱりいつまでも飽きない、惹きつけられる街だなと実感。
少なくともオレにとっては。

後悔

ないと言えば嘘になるのでしょうけど。
敢えて「ない」と言い切ります。
なぜなら、今の自分自身を愛していますから。
たとえ後悔があったとしても、今の自分を手に入れたということはその後悔以上に大きな実りであると信じていますから。
傷を伴う前進は決してマイナスではありません。
同様に傷を伴う後退ですら、オレにとってはマイナスなことばかりではありません。
傷を見て後悔するくらいなら、痛みを目覚まし代わりに歩み出せばいいんです。
マイナスも掛け合わせればプラスに転じます。
算数は九九でつまづいたようなオレでも、そういうことは知っています。

まっくら森

近くて遠いもの。
見えているのに見えないもの。
対極の時間を就業時間とする仕事をしてきたおかげか、裏側が少しは見えるようになりました。
華やいだ夜の明かりと溢れる嬌声の裏側、華ある世界の大きなリスク。
なぜ昼の人間がそれに惹かれるのかもよく知っています。
めくるめく変化は、面白いことをしたいあるいはしたかった世代には、とてつもなく魅力的な果実に映るからでしょう。
そこに危うさというスパイスが加われば、真面目を売りにしてきた人間なら、即座にハマってしまうことも肌で知っています。
そして、楽しい時間が長くは続かないことも、楽しみの代償が決して安くはないことも。
「派手な世界と賢く付き合うには、裏までじっくり見てからの方がいい…」
どんな世界でも裏まで見てしまえば、深い付き合いなどしたくなくなる人間が多いことを知りながら、そんな風にうそぶきます。

美醜

目でキレイだとか可愛いと感じるものは、当然美しいものなんだろうと思います。
ガキの頃に憧れた女のコは、とにかく可愛かったように記憶しています。
女のコの間での評判はどんなに悪くても、見た目が良ければとりあえずOKって感じで。
そういうコとくっつくのは、当たり前のように人気のあるオトコでしたね。
俗に言う美男美女カップルっていうヤツです。
見た目だけで判断してたガキの頃は、そりゃ非の打ち所のないカップルに映ってました。
それが、だんだんとオトナの世界に足を踏み入れるようになった頃から、不思議と「なんでコイツにこんなキレイな人が!」とかその逆パターンとかいうのを、かなりの確率で見るようになりました。
当初は不思議だったんですけど、オトナの世界に浸かっていると、ゆっくりと皮膜が崩れていくようにして、そういうカップルが生まれる理由が分かってきたんですよね。
なんて言えばいいのか、目ではなく心で感じる美しさがあるんじゃないかなって。
モラルや品のないコよりも、当然のことを当然にできるコの方がステキだなって、今にして思えばそんな当たり前のことが、容姿に隠れて見えていなかったんですよね。
それから数年を経て、何人ものカッコイイ兄さんやオヤジに会いました。
見た目はコワモテで近寄りがたかったり、お世辞にも美男とはいえないんですけど、近くにいるうちに優しさや温かさが肌越しに感じられるというのか。
オレもこんなカッコ良さを身につけたい、彼らに会う度にそんなことを考えます。
心で測る美しさを強く感じていたいです。

羽田にぼんやりと飛行機を見に行っていたことがあります。
なぜ羽田なのかと言うと、その当時は完全に国内線しか飛んでいなかったので、国外逃亡をする恐れがなかったからです。
逃避に近い感情を連れて、ただのんびりとモノレールに揺られて空港まで。
そこで何をするわけでもなく、ただ飛行機をぼーっと眺めているだけでした。
周囲にはかなりの不思議少年に映ったのは間違いないです。
昼過ぎから夜まで、メシと煙草とカメラとを繰り返すだけの途方もなく無益な時間。
でもそれをすることで、次に動き出す意識が芽生えたのは事実だったりします。
「小さい頃って、人間も空飛べると思ってたんだよね」
そんな台詞を口にしていた人をふと思い出しました。

***

湘南の心地よさ。
気づけばオレ色に染まるステキ同僚。
酔い電話に起こされるステキな人。
ゴメンナサイ。
でもオレらしくていい気はします。
また無責任なことを書いておきます。

空の青と本当の気持ち

義足をつけることを嫌った人がいます。
偽の足など必要ないからと。
たとえ片足でも歩くことはできるのだからと。
優しい人でした。
傷はすべて自分で背負って、誰も気遣う必要はないと周囲を遠ざける、そんな人でした。
見えない人には、傷を理由に当り散らすだけの厄介者にしか映らなかったかもしれません。
でも少しでも心に触れられるような種類の人間には、痛々しく感じられました。
当然、同情など求めていないことを感じ取らざるを得ませんでしたし、安い気遣いなど不快以外のものを与えないこともよく分かっていました。
でも…。
当時は腫れ物に触れることもできずにいましたけど、今にして思えば、彼の人は全てを拒絶することで生じる寂しさとか辛さとか、そういうものを自分の足にしていたように思えるのです。
これから先真実を知ることはありませんが、そういう悲壮な自分の覚悟を笑っていたように思うのです。
周囲への大きな優しさを今はただ感じます。
その真意が伝わらずとも構わないという覚悟の強さを。

都内と湘南はそろそろ飽きました。
たまには横浜で飲みたいです。
やっぱりあの街が好きなんだなって実感。

雨粒混じりの冷たい風が白梅の香りを漂わす

自分の運気が付き合いのある相手によって変動するというのはあると思います。
まぁ、「あいつに下げられた」と騒ぐのは、自分の力量や運のなさへの言い訳に過ぎないとも思いますけどね。
少なくとも出会うことで、自分の行動や性格に変化を与えてくれる人間というのはいます。
直接出会う機会はあまり多くはありませんけど、歌手や写真家やモデルといった種類の人間というのは最たるものではないでしょうか。
憧れている人間の好きなものに興味を持つとか、そういったことが全くない人っていうのは案外少ないでしょう。
運気なんてそんなちょっとしたことで変わるものだと思うんですよ。
好きな歌手がきっかけで恋人を見つけたとか、結構よく聞きますしね。
話が少しずれましたけど、出会うことでその後の行動に影響を及ぼすような人は大切にしたいと改めて思ったわけです。
その変化がプラスにせよマイナスにせよ、変化というのは面白いものですから。

頭痛、疼痛、悪い夢。
サヨナラの意味を思い出す。
ひとり寝の寒さを噛み締める。

目の前に杖をついた老婆がいれば、当然席を譲ってしまうわけです。
たとえ自分がどれだけ眠かったとしても。
人は見掛けによらないなんて、いつもの台詞が聞こえてきます。
ま、もう気にもなりませんけど。
尖がり方を間違えなければ、パッと見が冷淡でも悪者でもいいんです。
温かい気持ちになれたら嬉しいですから。
それが自己満足の偽善でも構わないんです。
心がポッと温かくなる瞬間があるだけでいいんです。

発狂

狂ってしまった人と会う機会がありました。
彼の人は精神を病んだわけではありません。
彼の人は心の弱さを消し去るために薬物を選んだわけではありません。
彼の人はただ面白いからという理由で薬物を手に取りました。
その行動の変化に気づいた時には、既に手遅れだったと記憶しています。
あれほど楽しかった会話はまったく成立しなくなり、記憶すら曖昧になってしまっていました。
いつも傍にいたはずのどれだけつながりの深い仲間たちの名も口に出してはくれませんでした。
口からこぼれ出た言葉は「誰?」の一言。
家人はかつての仲間たちを薬物漬けの引き鉄になったと信じて疎んじ、オレは彼の人に会うことはそれから1度たりともありません。
でも、彼の人の顔を忘れません。

失恋したので髪を切りました。(定番)
雪の中を歩きながら久々に切る銀塩カメラのシャッター。
上がった写真に、この日の温度が写っていますように。

モテ

以前から気遣いがどうとかちょっとした心がけで変わるとか言ってきましたけどね。
実際のトコ、そんなのはプラスアルファに過ぎないとも思うのですよ。
そりゃそういうちょっとした行動で、結構大きな変化は認められますよ。
でも、それは相手が自分に少なからず興味を持った場合に限られてしまうわけです。
見た目がずば抜けてカッコイイとか、センスがビックリするくらい良いとか、あるいはその対極であるとか、行動が周囲のそれと大きく異なるとか、そういうことがない限りは注目ってなかなかどうしてされないものですから。
この際ですから言い切りたいと思います。
モテとはすなわちカリスマであり、超常的な資質であると。
醜形、美形、気遣い、心がけなど、先天的なモテの前には大した問題ではありません。
モテの醸し出す雰囲気がすべてを左右するのです。
とか言ってみることで、自分のモテ度の低さを言い訳してみたりします。
いえ、お兄さん的とかバカ息子的な受けは格段に良いんですけどね。

虚無

「果てしない物語」では異様に恐れられていたものです。
ファルコンの顔は忘れましたが、主人公の名前は覚えています。
最近、頭を後ろから殴られるような感覚で、その虚無感が不意にやってくることがあります。
仕事における反省とか後悔という言葉が相手に存在しないのが、引き鉄になってしまうのでしょう。
そんな好例というか悪例を今年も味わえたのは、自分の気を引き締める上でも悪くはなかったと思います。
今回もまた内部的な仕事でそれを味わってしまったのは、嬉しくはないのですけどね。
でも黒い気持ちでそういう虚無を噛み砕くことがあったとしても、それは決してマイナスではないことをオレは知っています。
そういう気持ちを持つこともなく、ただ自らの身を繕うことにだけ気を配るような方もいらっしゃるのでしょうけども。

***

香水。
5年ぶりくらいにつけなれてきました。
とはいえ、トワレを朝イチで吹き付けるだけなので、午前中だけですべて飛んでしまいますが。
寝起きの動作の一環といった感じですかね。
「DAVIDOFF ECHO」の自分で酔わない程度の香りがお気に入りです。

目を閉じて浮かぶのはあの日のワインパーティ

大体コドモ、時にはオトナ。
よく知った仲では、そういうキャラクターのようです。
あまり深い付き合いでない場合は、その対極の印象を与えるようですけど。
考えてみれば、たしかにやってることはほとんどクソガキそのままなんですよね。
なぜかと問われれば、オレはガキのまま大きくなったので、楽しいことがガキの頃のそれとほとんど同じだからと答えます。
その楽しいことをする際に、周囲に気を遣ったりさらにヤバめなことをやったりするところが、オトナという色を差している部分なんだと思っています。
基本的にオトナの顔もコドモの顔も意識してつくってはいません。
どちらかといえば、コドモ寄りなのかもしれませんけどね。
オレがコドモの表情をしている時に、ホントの子供よりは少しだけ人生経験を積んでいる分、どこかオトナびて見えるのを「オトナ」だと感じ取っているのかもしれません。
深く付き合えば付き合うほどに、オトナなのかコドモなのか「分からなくなる」というのが、イチバン的を得ているのではないかと思います。