夕暮れ。
童謡の流れる時間。
お家に帰ろう。
昨日と今日の間に
その「いい天気」がどの天候を意味するのか知りません。
晴天ならば陽光がポカポカと心地良いだろうし、雨天であれば傘や雨合羽を打つ雨音やぱしゃりと跳ねる水溜りが楽しいだろうし…。
もしかすると、当の本人もその「いい天気」をどの天候と位置づけているのか分かっていないのかもしれません。
ただ、その「いいおてんき」という言葉の響きに、オレは自分の刺々しい気持ちが和らぐのを知っています。
空模様など関係なく、その言葉を耳にするとオレの心は「いい天気」になります。
その言葉は、大切なのは天候じゃなくて気の持ちようだと、忘れかけていた些細ではあってもとても大切なことを思い出させてくれます。
冬って人肌恋しいですね。
ホッとするようなキスがしたいです。
火のつくような熱いそれじゃなくて、心がほっと温まるようなそんな感じの。
のんびりとシーツか毛布にでもくるまりながら、ゆっくりじっくりたっぷりと。
似合いませんか。
でも、結構甘えたがりなんですよ。
猫のように、都合のいいときだけ膝の上にやってくると言われたこともあります。
客観的によくよく考えるとひどいヤツだなぁとは思うんですけども。
それでもいいから、猫可愛がりしてくれる人を募集中です。
天気が良ければ短い休みの間に写真でも撮りたいですね。
たらたらとカメラ片手にのんびりと。
めっきり食いたいと思う女のコが減りました。
当然ですが、オレの方に原因があるんだと思いますけどね。
可愛いとかキレイだとか思うことは多々あるんですよ。
そういうコを見て反射的に口に出すのは、エロ兄さんらしく「食いつきたい足」とか「埋まりたい乳」とかなんですけどね。
それにしたって口先だけで、どこか冷めている自分を再認識するだけだったりするんです。
まぁ、元々「純愛派」ですから大した問題はないと思いますけどね。
今回はツッコミとかいりませんので、どうぞご安心ください。
ハグやら膝枕やらでただひたすらに癒されたいようです。
まぁ、じっくり癒されて快復した後はしっかり食べますけどね…、とか書けるうちはまだ大丈夫だと思われます。
白いトップはステキだと思いますよ。
白いコートサイコー!というオレと、白衣サイコー!というナースフェチの先輩と2人で営業車で港南・磯子区を回った営業時代をついつい思い出します。
信心深い方はどうぞ読み飛ばしていただきたいのですけど、不信心なオレに言わせれば、信仰だってフィーリングの問題だと思うのですよ。
この神は信じようかとか信じないとか、子供が夜中のトイレに立つときにオバケなんていないぞ~と言ってるのと同じレベルだと思うんです。
好きな神様はいて嫌いなオバケはいない、もしくは好きなヒーローが嫌いな悪者をやっつけてくれる、そういうのがオレにとっての信仰なんですよね。
信仰は好き嫌いでその存在を肯定したり否定したりっていうヤツだと思うんです。
要は何かにつまずいたり救いを求めようとするときは、より自分の得になるもの、より自分が好きなものを選ぶというのの最終形が信仰じゃないかなぁなんて。
なんというのか、何事かに迷ったときは自分の好き嫌いで選べばいいんじゃないかなって思ったのですよ。
自分だけで完結する規模のものであれば。
頭の弱い人間にはきっと身につかないものだと思います。
ここで言う「頭の弱さ」というのは、勉強の出来不出来でも知能指数の高低でもなく、人間としての誇りを持ち得るか否かにかかるものです。
誇りある者は舐められれば腹が立ちますし、事によっては怒り心頭することもあるでしょう。
しかしながら、誇りのない者は怒ることができません。
場合によってはバカにされていることにすら、少しも気づくことが出来ません。
自分自身の首を絞めているときであっても、おそらくは首がねじ切れる瞬間まで気がつくことはないのだと思います。
そんな人間に自身の行動の責任を問うこと自体が、愚の極みなのだと近頃は思います。
誇りなき者に自身の行動の責任を取れと言うことに、何らかの意味を見出すことができないのです。
罵られて為すすべなく地べたに座り込む成人より、バカだと言われて顔を真っ赤にして怒る幼児の方がいかほど誇りを持っているか、考えてみるのも悪くないかもしれません。
誇りあるものにこそ、責任という重荷は意味を持つことを。
***
私信。
おつかれさま。
次こそ良きスタートが切れますように。
陰ながら祈っています。
ライムを落としたグラスをジンとキューブドアイスとソーダで満たす。
いつも通りのジンリッキー。
バースプーンを伝わせてグレナデンシロップを底に沈め、氷に乗せるようにメロンリキュールを静かに注ぐ。
華やかなデコレーションで飾り立てることもなく、グラスに塩や砂糖でファザークリスマスやトナカイといった絵を描くこともしない。
色使いだけでクリスマスを表現した、これ以上はないくらいにシンプルなカクテル。
手抜きとも取れそうなその仕事ぶりが、必ずしも手抜きでないことをオレたちは知っている。
イチバン好みのカクテルをベースに、気分を盛り上げようとしてくれる彼の優しさをよく知っている。
オレたちにとって最高のクリスマスカクテルは、あの日のあのバーカウンターであのバーテンダーが作ってくれたあのカクテルなんだと、この日を迎えて実感する。
クリスマスカードをいただいた方、メールをいただいた方ありがとうございます。
返信しきれていませんが、全てありがたく受け取りました。
ウチの壁に電子ダーツがぶら下がりました。
ますます普通のご家庭から遠ざかっていった気がします。
まったく気にしませんけどね。
ちなみに製菓会社の懸賞で当たったのであって、決して大枚叩いて購入したわけではないです。
それで取り付けたついでに当然プレイするわけですけど、これがかなり面白いんですよね。
バーとかで100円玉入れて、バーボンショット一気を賭けてやってるあの緊張感とは異なって、のんびり楽しめる感じがたまりません。
まぁ、緊張感がないだけあって下手っぴーなスコアになるわけですけどね。
規定とかそういう概念は無視で、本当に遊び感覚で1.5メーターくらいの位置から投げ合うのが面白そうですわ。
お近くにおいでの方はぜひどうぞ。
なんだかゲーセン通いしていたゲームが、家庭用ゲーム機に移植されたような不思議な感覚を久々に味わいました。
***
その手にある幸せを大切に。
掌から取りこぼすことのないように。
何が大切で何が大切でないかを見失うことのないように。
「ナチとつるんだ国のガキ」と仏語で罵倒されたのはこの時季です。
あの時はいきなりハンマーで頭をぶん殴られた気分になりました。
こんな国イヤだー!と、出国手続きを取ろうとしたのもネタっぽいですけど事実です。
それでも彼の老人のいる店に通い続け、周囲の力を借りて少しずつですけど、でも確実に歩み寄れたと信じています。
日本人観光客にしては長期の滞在の最終日、「アデュー」と言ったオレにかぶりを振って「アビヤント」と、はにかみながらハグしてくれたのを覚えています。
長い別れと知りながら、「またな」と言ってくれたあの老人の心の優しさを忘れません。
分かり合える時は必ず来てくれると信じています。
きっと。
道はどこかで重なるはずですから。
当たり前のことを当たり前にやることが、オレにとっては最大限なわけです。
だから、自身の仕事の出来に関しては誇ることはまずありえません。
成果に対する賛辞に喜びを感じますけど、それはそれで次はどんな風にしようかなと本人の頭の中ではグルグルと回り始めていたりするわけです。
大風呂敷を広げられるだけの力量はないので、自分に合ったサイズの風呂敷を広げて、その上をちょこちょこと装飾する程度ですけども、ロースパンで物事が移っていけば華麗に魅せられる部分というのも増えるのではないかなと考えているのです。
当然、装飾の際にはより美しくという欲求がでますので、自分の今いる位置より少し高い所に生えている花を摘むための努力をしていければいいんだと思います。
高嶺の花も悪かないけど、花は背伸びしたくらいの所にあるヤツがちょうどいい。
無茶をするなとも、オレ自身が無茶をしていないとも言いません。
ただ、少なくともオレは血の滲む努力をしている姿を誰かに見せたくはないのです。
自身の力量を無視した行為は自虐としか映りませんからね。
至極当然とばかりに、常にええかっこしいでいたいのです。
人間見た目がすべて、というのはある意味正しいと思います。
なぜなら、性格は表面ににじみ出るものですから。
最近気づいたんですけど、オレが「外観はかなり重要だよね」と言うと、ほとんどの場合「秋は中身も含めて見てくれだって言うものね」と言われてしまうんですよね。
外観に性格はにじみ出るものだから当然だろうというのがオレの認識なんですけど、これは一般的とは違うんでしょうか。
たとえば、犬猫は顔が凶悪な相手であっても、優しい人であればその心根を見抜いて懐いてしまうでしょう?
オレの見ている視界ってアレと同じだと思うんです。
まぁ、オレに見えるんだから他の人に見えないはずはないと思うんですけどね。
きっとそういうものが見えないヤツは、外観すらキチンと見ようとできない面白みのないヤツなんだろうなとふと思ってみたり。
ちゃんと目を見ればすぐに分かるのにね。
相手の作ってる仮面やら着ぐるみなんて、底が薄いってことに気がつくのにね。
もったいないです。
自分がどんなにつまらない、あるいは辛い状況にいても他人の相談を受けてしまいます。
ある一定の時期に見に染み付いてしまった悪癖だと思いますが、それをどうにか拭い去ろうとかいう気持ちは毛ほどもないです。
なぜなら、相談を受けるだけで相談相手の心が多少なりとも晴れてくれれば、オレ自身も嬉しいですし、その相談事への回答として自分が発する言葉の端々に自身への啓発や激励を見出すことができるからです。
オレに相談をしてくれるってことはそれだけで、オレの気持ちも救っているんだと感じてくれるとありがたいです。
何より、お互いを信頼していなければできない相談っていうのをオレを選んでしてくれる、それがイチバン嬉しいんです。
オレを兄のように慕ってくれる相手を可愛く思うのは、やはりオレも誰かを兄や姉として慕ったことがあるからでしょうね。
温かいというかくすぐったいというか、なかなか嬉しいものです。
こういう感覚って、いつからか忘れたふりをしていた気がします。
素直に嬉しいと思わせてくれる妹・弟分たちに感謝です。
少しばかり美味いものを食べ過ぎているようです。
ココは美味しいと連れて行かれた店で何を食べても「これは!」と思えないことが多いのです。
きっと格安の定食ライクな価格設定なら美味しいと判断できるレベルなのだと思いますけど、場所柄なのかあまり懐に優しくない価格設定だとなると料理人の腕と紹介者の舌を疑わざるを得ません。
そんなステキな価格設定の店に連れて行かれたからには、期待するじゃないですか。
それを裏切られたらやっぱり、毒も吐きたくなりますよね。
「これと同じ値段の刺身を買ってきたら、シロートがさばいてもこの料理より美味しいよね」と酔ったふりもせずに素で言います。
対価に見合うあるいはそれ以上のものを食わせる(飲ませる)というのは、料理を生業としている以上は最低限のマナーだと思うのですわ。
まぁ、接客態度で食べ物の味は3割増にも3割減にもなりますから、一概に美味いものだけ出してればいいってわけじゃないですけどね。
ちなみに、アレなお店を勧めるようなヤツには、オレの好きなそれなりに財布に優しい価格と美味しいと素直に言えるレベルの料理を出す店には、なるべく連れて行かないようにしています。
知らない世界を知ってしまった後、自分のテリトリーに帰れなくなるのは想像に難くないですからね。
知らない方がいいこともあるんですよ、きっと。
大切だからこそ別離を喜ぶ。
いつまでも同じ点には乗っていられない。
憎んで失うのは耐えられない。
愛して失うのなら笑顔でいられるはず。
かつて道を違えた人たちがオレに向けてくれたように。
傷や痛みを恐れて小さくまとまらなくちゃいられないなら、仲間などいらない。
与えられる暴力に、すべて想いがこもってたから、オレは自分の道を見失わずに済んでいる。
もし次に会うときに、「変わらないな」とか「いい顔になった」とか言ってもらえるように、オレは成長したいと願う。
馴れ合うことのないように。
「それじゃあな」と笑ってオレは見送る。
いつか偶然の再会を願ってる。
完璧主義なのか揚げ足取りなのか。
ま、更年期障害なんじゃないかと思いますけど…。
やっぱりオレにとっては見た目が重要なんですよね。
かわいいおねいさんなら許せても、お顔の不自由なオバちゃんだと許せません。
でも使い手のニーズ(だと思い込んでること)に沿っているので文句はつけません。
いえ、他にやることのある中で雑用やらされるだけでもだるいのに、お世辞にも美しくないヒステリーオバちゃんとは関わりたくないっていうのが本音なんですけども。
本題がちっとも進まないのはオレのせいじゃないはずなんですけど、今回もまた雑用ライフを満喫。
こんな舐めた状況なら、原稿投げ出しても許されるよね。
とりあえず枠組みくらい幹部がちゃんと決めてくれなくちゃ、一応それなりの企業なんだし。
あの日あの人とあのバーに行かなければ、オレの人生の実りは少し違うものになったのかもしれません。
いえ、おそらくは少しも実を結ぶことはなかったような気さえするのです。
こんな風に考えることがあります。
場所であったり、人であったり、時間であったり、形は様々でもきっと誰にでも何かしらそういうものがあると思います。
実際のところは、後になってはじめてそれが岐路だったと感じるわけなんでしょうけども。
オレは生き方を変えるというか、その後の自分自身の行動に少なからず影響を与えてくれたものがあります。
その多くは既に失われたものですが、もう1度手にしようとも思いません。
何より2度と手に入らないものの方が多いですから。
標になったものたちは、記憶の中にだけ色鮮やかに刻まれていれば良いのだと思います。
なんだか薄れかけた記憶をまた強く刻みつけたいと思いました。
深く、もっと深く。
寒い空気を感じたら、なんだかスノーフレイクを思い出しました。
あの時は気づけばこの日に発ったんだよなぁ…。
ここのところタイミングの合わない、パブロ・ピカソの皿が観たいです。
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